母がぬかみそを辞めたのは、
父の三回忌を過ぎた後のことだった。
ある日、実家に帰った私が気づいたのは、
いつも台所の隅にあったホーローの容器が見当たらないことだった。
母が毎日かき混ぜていたぬかみその容器、
それは私たち家族にとって生活の一部だった。
幼い頃、私はその様子を横で見ながら、「母はぬかみそが好きなんだな」と
漠然と思っていたが、それが父のためでもあったことに、父が他界してから気づかされた。
母のぬかみそ漬けは、どこか特別な味がした。
きゅうりやナス、人参が丁寧に漬け込まれ、食卓に並ぶと家族みんなが喜んだ。
特に父はぬか漬けが大好物で、食卓にそれが出てくるといつも嬉しそうに笑顔を見せていた。
夏の暑い日、冷たいぬか漬けを食べる父の姿が今でも鮮明に思い出される。
そのたびに母は満足げに微笑んでいた。
塩加減が絶妙で、シャキシャキとした歯ごたえがあり、
ぬかの風味が口いっぱいに広がる。それが、私たち家族の味であり、父の幸せの象徴だった。
結婚して家を離れた私が帰省するたびに楽しみにしていたのは、
母のぬかみその味だった。
ぬか漬けを食べると、家族で過ごしたあの頃の思い出がよみがえり、安心感に包まれた。
しかし、父が亡くなってから、母の様子が少しずつ変わっていくのを感じていた。
母はいつも通りぬかみそをかき混ぜていたが、
その手つきにはどこか寂しさが漂っていた。
それでも、母はぬか漬けを作り続け、父のことを思い出すようにしていたのだと思う。
三回忌を過ぎたある日、実家に帰ると台所の隅にあるはずのホーローの容器がなかった。
「あれ?」と思って母に尋ねると、母は少し寂しそうに微笑んで、「もうやめたのよ」と言った。
その言葉に、私は一瞬息を呑んだ。
母の手からぬかみその香りが消えた瞬間、私にとっても一つの時代が終わったのだと感じた。
母がぬかみそを辞めた理由は、
父の不在が大きかったのだと思う。
父のために、母は毎日ぬかみそをかき混ぜ、
家族の食卓にその味を提供していた。
父がいなくなった今、母にとってぬかみそを続ける理由が薄れてしまったのだろう。
母のぬかみそがなくなったことで、
私もまた、父のいない現実を受け入れなければならないのだと悟った。
そんなある日、母は私に言った。「ぬかみそ、あなたに託すわね」と。
母が大切にしていたホーローの容器を手渡され、
その瞬間、ぬかみその重みが私の手に伝わってきた。
母の手から引き継ぐというより、母から託されたのだ。
私はその容器を受け取り、自分の家庭でぬかみそを続けることを決意した。
最初は母ほど上手くいかず、何度もやり直すことがあったが、
ぬかみその香りが私の家に漂うたび、
父と母の記憶が蘇り、家族の絆を感じることができた。
それは、私にとって新しい形での家族の伝統を受け継ぐ意味でもあった。
母がぬかみそを辞め、私に託すことを選んだ背景には、
母なりの家族の歴史と愛情が込められていたのだ。
今もぬかみその香りが台所に漂うとき、
私は母と父のことを思い出す。
そして、その香りは、これからも私の家族に受け継がれていくのだろう。
母がぬかみそを辞めたことで感じた寂しさを乗り越え、
私は新たなぬかみその物語を紡いでいる。
それが、私にとっての新しい家族の味となり、母と父への感謝の証でもあるのだ。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
それでは、また!
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